競艇界の不死鳥!?艇王と称された植木通彦のボートレーサー人生を振り返り特集します。

投稿日:2019年3月28日
最終更新日:
艇王 植木通彦

競艇好きは誰もが知っている競艇界のレジェンドとして、今でも解説やトークショーなどでも活躍する植木通彦さんです。

競艇の艇王 植木通彦(うえき・みちひこ)選手とはどんな人?

艇王 植木通彦

植木通彦さんさんは、選手時代の3年目に桐生競艇場で転覆した際に顔面を75針も縫う大けがを負う事後に見舞われるが、同じく桐生競艇場で半年後に復帰し、ファンからは不死鳥と呼ばれるゆえんになった選手です。

現役時代は、SG10V、G123Vをマークし艇王の名で親しまれました。2007年7月の鳴門一般戦で39歳にして引退を表明します。その後、現在は日本モーターボート競走会の理事を務める、真の競艇人生といって過言ではない選手です。

生年月日について

植木通彦 生年月日

1968年4月26日に福岡県北九州市で生まれます。現在(2019/03月)で50歳になります。

身長165cm、体重51kg、血液型O型

現役時代は福岡支部所属で登録番号3285、登録期59期

福岡県立小倉商業高等学校2年時に中退しています。当時は野球部に所属にしていました。その後、全国モーターボート競走会連合会本栖研修所(現やまと学校養成所)に入所します。ここから彼が、ボートレース王になる道が始まります。

植木通彦手の実績について

競艇 実績

1986年福岡競艇場でデビューします。
1989年に選手生活3年目の1月16日、桐生競艇場でのレース中に転覆した際に、後続艇のプロペラで顔面を切り刻まれ、全治5か月、傷の縫合に75針を要する重傷を負う事になってしまいます。

半年後、レースに復帰するが、負傷した競艇場での復帰を避ける選手がほとんどの中で、父親の進言や自身を奮い立たせる意味を込め、復帰戦の場として桐生を選びました。凄い精神の強さを感じます。

ファンからは、「不死鳥」の異名が植木に与えられることとなり、1990年代後半に放映された競艇のテレビコマーシャルでも「平成の不死鳥、植木通彦」というナレーション、テロップで紹介されました。

1990年に唐津競艇場で開催された、新鋭リーグ戦で初優勝を飾ります。
1992年に福岡競艇場で開催された地区選手権競走(九州地区選手権)で初のGI優勝を果たします。
1993年に、戸田競艇場で開催された第28回総理大臣杯競走でSG初優出と初優勝を手に入れます。
SG優勝戦で、モンキーターンを使い勝利したのは、競艇史上初です。この優勝戦にモンキーターンの創始者飯田加一も進出します。

1994年に児島競艇場のモーターボート記念競走で優出2着を取り、つづく常滑競艇場で開催の全日本モーターボート選手権競走で優勝します。
年末の賞金王決定戦進出するが惜敗。しかし、初の年間賞金王になりました。

1995年の年末に、住之江競艇場で開催された第10回賞金王決定戦。

このレースは、艇史に残る死闘として今なお語り継がれる名勝負です。

植木は5号艇から奇襲の2コース進入、1マークマクリを放つが中道が受け止め、2マーク中道が流れ植木が差し返す、ターンマークの度に先頭が入れ替わる死闘を演じ、2人は併走でゴール、わずかの差で植木が賞金王を制します。しかし、年間の賞金王は逃しています。

1996年のオーシャンカップ競走と、モーターボート記念競走、全日本選手権競走で優出3着に入ります。

年末、賞金王決定戦は戸田競艇場で開催され、トライアル初日では、中道のマクリに植木が抵抗し大競り、植木は3着、中道は6着になります。

トライアル2日目は別々のレースでともマクリ1着を奪います。

トライアル最終日、中道が1着、植木は3着。中道・植木どっちが勝っても初の2億円レーサーが誕生する決定戦、2号艇中道が3コース、4号艇植木が4コースでセンターに並んで進入、植木が内側を一気にマクって決着をつけます。

公営競技では、初の年間獲得賞金2億円レーサーとなり、そのニュースは翌日のデイリースポーツの表一面を大きく飾りました。

1997年に常滑競艇場で開催の笹川賞競走で優勝をし、5年連続SG優勝を達成します。

夏の元若松競艇場でのモーターボート記念競走は優出2着となります。

1998年に丸亀競艇場の総理大臣杯、宮島競艇場のグランドチャンピオン決定戦で優出、賞金王決定戦に出場も順位戦止まりになります。

1999年の児島競艇場の総理大臣杯と、モーターボート記念競走で優出し年末、賞金王決定戦は得点トップで優出も大外進入になり展開はありません。

2000年の宮島競艇場のオーシャンカップ競走、優勝戦、植木は大外6コースからマクリ差し先頭に出るが、2周1マーク手前で島川光男と大競りとなり西島が割り差して2着になります。

2001年の唐津競艇場で開催された第11回グランドチャンピオン決定戦競走で優出、2コースからマクってで4年ぶりのSG優勝を獲得します。

2002年の若松競艇場のオーシャンカップ競走をイン逃げで優勝します。

11月津競艇場の競艇王チャレンジカップもイン逃げで優勝、さらに住之江競艇場で開催された第17回賞金王決定戦も4コースからマクって優勝、6年ぶり3度目の賞金王に輝くことになります。

自身初のSG連覇を記録し、年間SG3勝、賞金王決定戦3勝、10年連続賞金王決定戦出場、9年連続の獲得賞金1億円は至上1位タイ、年間獲得賞金2億8418万4000円は艇界及び公営競技最高記録を樹立します。
その後、2003年の競艇王チャレンジカップ競走までSG優出は無く、賞金王連続出場記録は途切れてしまいます。年末には賞金王シリーズ戦に初出場し優出を3着をとります。

2004年の福岡競艇場の全日本選手権競走で優出2着で、賞金王決定戦はトライアルを得点トップ、決定戦を1号艇で迎えるが、1マーク振り込んで終戦します。

2005年の常滑競艇場の笹川賞競走でインから逃げて2年半ぶりのSG優勝を獲得し、SG通算優勝回数が10回の大台に到達します。
グランドスラムを懸け地元若松のモーターボート記念競走で得点トップで準優出も結果は3着。年末、賞金王決定戦に出場も負傷で帰郷する事になります。

2006年の尼崎競艇場で開催された「競艇ニュース杯」の一般戦で優勝し通算1,500勝を達成します。

植木 競艇ニュース杯

丸亀競艇場で開催された競艇王チャレンジカップ競走で優出、賞金王決定戦出場に2着条件であったが惜しくも3着になります。

2007年の年始尼崎競艇場で開催された周年記念競走「近松賞」で優出3着、2007年SG初戦・総理大臣杯直前に三国競艇場で開催された周年記念競走「北陸艇王決戦」で同じく優出3着と、昨年秋から続くそこそこの好調ぶりを見せ、総理大臣杯へと臨みました。

平和島競艇場でのSG第42回総理大臣杯、SGでは珍しく超抜モーターを手にした植木の豪快なイン逃げで誰も捲ることが出来なかったため、平和島競艇場審判課・松永良一アナ(通称:ベイ吉)に『ウエキング』という愛称を名付けられ、予選トップ通過・準優を見事なイン逃げで優出を果たすが、1号艇で出走した同大会優勝戦にて、インスタートから僅かコンマ01ではあるが痛恨のフライングを犯し、売上の9割以上にあたる17億4522万7700円という記録的な返還額となってしまいました。
これは歴史的にも残る大きなニュースになりました。

このフライングにより、植木は今後1年間賞金王決定戦競走を除く全てのSGへの出場資格を失い、予定されていた住之江でのSG笹川賞競走の出場・初日ドリーム戦(4号艇)出走も取り消されることになってしまいました。

その笹川賞競走で優勝を果たしたのは、同年総理杯で優出3着、植木の代役としてドリーム戦に繰り上がり出走となった同郷の後輩である強豪選手・瓜生正義です。
総理大臣杯の植木と同じく、優勝戦を1号艇から出走し、SG初優勝を果たした。
また、植木はフライング休み明けの2007年6月15日からも、GIには規定に基づきフライング休み消化後6ヶ月間選出除外となることが決まりました。
よって同年末に行われる、初の地元開催となる賞金王決定戦競走(福岡)への出場が、実質的に閉ざされました。
その後、地元の2つの周年記念競走(若松・芦屋)に出場(自身最後のG1出場)し、総理杯のフライング休みに入ります。

引退について

植木通彦 引退

植木通彦はフライングの休み明けから突然の引退発表をします。
休み明けの復帰戦は奇しくも、平和島競艇場での「サントリーカップ」(一般競走)でした。レースは好調ではなかったが、しっかりと3着で優出を果たしました。

平和島での復帰後、次に出場した鳴門競艇場での一般開催「ヤクルト杯競走」では惜しくも次点で優出ならず、最終日18日の第10レース・「うずしお選抜戦」で1号艇からイン逃げを決め1着でゴールします。結果的に、このレースが現役最後のレースとなりました。

鳴門競艇場の一般開催終了後、翌7月19日に突然の引退を発表します。
翌7月20日、東京都港区のホテルパシフィック東京で行われた永年功労者祝賀会にて現役勤続20年の表彰を受けたのち、同ホテルにて引退会見を行い正式に現役引退を表明しました。
会見の中で、植木は「今回の引退は、桐生での事故の後、これからどうしようかと考えたときに、桐生のみなさん、そしてお世話になったみなさんのためにも『20年間、命を懸けて走ろう』と決心しました。そしてその20年が来ました……」と語っています。

通算成績は4500走1562勝、勝率7.58、優勝74回(SG10回・GI23回)、生涯獲得賞金は22億6184万2369円と素晴らしい功績を残します。
現在歴代3位、当時、競艇界で生涯獲得賞金が20億円を越えているのは今村豊・松井繁を含む3人だけでした。

引退後の活動について

引退後 やまと 校長

2008年4月より、一般財団法人日本モーターボート競走会の理事職に就き、現在は執行役員、競艇選手育成機関であるやまと学校を担当していましたが、自身のブログにおいて2012年4月1日付けでやまと学校校長に就任したことを発表しています。

また、2017年4月付でやまと競艇学校の担当から特命担当に変更しますが、2018年5月退任します。その後、2018年6月からBOAT RACE振興会のボートレースアンバサダーを勤めます。

そのため、選手引退後の現在でも競艇関係者の立場にあることから、規則上、予想行為や勝舟投票券の購入が許されず、また、それゆえ、レース関係のコメントを行うことがあっても、主に技術論や選手心理、水面状況、勝因敗因について語るのみにとどまり、直接的な結果予想を言及することはできない立場にあります。
2008年には、ボートレースの殿堂入りを果たしました。
2008年11月16日の若松競艇場内に「フェニックスホール-植木通彦記念館-」がオープンしました。
2009年3月11日から、若松競艇場で新鋭リーグ戦「植木通彦フェニックスカップ」が開催されています。

主なタイトルについて

V1 第28回総理大臣杯
V2 第41回競艇ダービー
V3 第10回記念賞金王決定戦競走
V4 第11回賞金王決定戦競走
V5 第24回笹川賞
V6 第11回グラチャン
V7 第7回オーシャンカップ競走
V8 第5回記念競艇王CC
V9 第17回賞金王決定戦競走
V10 第32回笹川賞競走

他、G1レースでは23勝しています。

人気コミック【モンキーターン】にも登場

榎木祐介

人気競艇コミックの【モンキーターン】にて、主人公の波多野憲二(はたの けんじ)がVモンキーなどの旋回技などを使い、競艇王になるまでの苦悩やエピソードをまとめた非常に面白い漫画です。
競艇好きの方は、一度は見たことがあるのではないでしょうか。

その中に出てくる登場人物で、榎木祐介(えのき ゆうすけ)という人物が存在します。
「艇王」の異名を取る競艇界のトップレーサーで、山口県下関市出身、山口支部所属。デビューから2年10か月という最短記録でSGタイトルを獲得、3年連続で賞金ランキング1位を獲得し、グランドスラムにあと一つまで迫っている設定です。

イン逃げもマクリも出来る自在屋で、モーター整備やプロペラ製作においてもトップクラスの技術を持っており、その実力と人間性で他の選手から慕われ記者からの人気も高い。レース中の事故で顔面に重傷を負ったことがあり、その時の傷痕が口元に残っているという人物こそが、艇王 植木通彦をモデルに制作されました。
コミックにも登場する植木通彦さんは非常に凄い功績と、経歴を持って競艇界のトップに君臨していたかが解ります。

まとめ

艇王

艇王の植木通彦とは、SG優勝を10回も取り、出走4500回の中で1562勝もあげられるような、競艇界の帝王です。
過去に、レース中の大事故により、選手生命どころか、命まで危ないと言われた時から、競艇愛を胸に刻み、復活してくる不死鳥の魂が、ここまでの功績を生み出したのではないでしょうか。

歴史的にも数本の指に入り、殿堂入りする植木通彦は過去の実績を踏まえ、解説やトークショーなどのイベントにも多数出演されています。
そんな艇王植木通彦の、今後の活躍に期待したいと思います。